2008年03月13日
摂関政治
昔歴史で習いましたね!
摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態である。
衰退期
1068年、王統統一の流れの中で後三条天皇が即位した。後三条天皇は藤原北家の祖父を持たない約170年ぶりの天皇であり、それを支援したのは同じ摂関家ながらその就任資格から排除された藤原能信(頼通の異母弟)らであった。後三条天皇は、天皇の威信と律令の復興を意図する政策を次々と打ち出し、次代の白河天皇もその政策を引き継いだ。だがこの間、摂関家では頼通とその後を継いで関白となった教通(頼通の同腹弟)が確執を起こして、天皇に対して具体的な対抗手段を取れる状況ではなかった。
そして、白河天皇は1086年に上皇となったが、それは引退などではなく、上皇としての政治、いわゆる院政の開始を意味した。律令の規定上、上皇は天皇と同等の権力行使が可能であり、天皇の実父であるという強みも得て、政治権力は摂政・関白から上皇へシフトしていった。更に偶然にも藤原師通(頼通の孫)の死後の摂関家では後継者争いが生じ、最終的に白河法皇の介入という形で解決がなされてしまう。このため、以後の摂政・関白の任命には上皇(法皇)の意向を無視する事が不可能になってしまった。こうした摂関家自らの内部事情が摂関政治の衰退に拍車をかけてしまったのである。
古典的な理解での摂関政治はまさに院政によって終焉した。古典的理解による摂関政治は母系的繋がりを持つ天皇、公卿による政治の独占で、母系の要となる者が摂政・関白となるという理解である。しかし、院政の出現により、貴族の家格というものが固定される。古典的理解での摂関政治では、幼帝の外祖父とその血縁者のみが摂政、後に関白や公卿の権利を持っていたが、院政の成立後には藤原北家頼通流にのみ摂政・関白職が世襲されることが公認される。皮肉にも摂関政治を終焉に導いた院政が「摂関家」という概念を生み出した。そして、実体としての摂関政治は、後三条・白河期に終焉を迎えていたと見るべきであろう。
(以上、ウィキペディアより引用)
セッカンセイジ。
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